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まさに世界の終わり

見てきた。内博貴主演舞台「まさに世界の終わり」

 

久々もなにも全然使ってなかったブログだけど、Twitterに投下するよりはいいのかな劇の感想だしなということで。ここに記す。

 

 

「まさに世界の終わり」がどんなあらすじなのかとかいつ、どこで、誰がとかはほかの方に任せて。ここはわたしが見た感想だけを綴ります。ご了承くだされ。

 

 

 

 

(以下、ネタバレ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

時が過ぎて、一日が終わる頃、…

パンフめくってすぐのそれ、が、なんというかこの舞台のすべてで。

 

旅をしたわけだ。していたわけだ。ルイは。

その終わりが家族の元ではなかったのだろうか。という、ね。

 

家族の元。帰るべき場所は、彼にとっては旅の途中立ち寄った場所でしかないのかもしれない。

 

 

ぼんやり思うのはそんなところ。

 

ちなみに原作は読まずに挑んだ。

 

これは読まないで見るのはかなりハードルが高いと思う。

 

ちひろきのファン、というだけではなかなか辛い人がほとんどではないかな。

 

他の出演者のファンなのか観劇通のおばさまなのかは分からないが、9列目の私の席より前に座っていた大人たちも3場あたりで(どこで切れてるかは知らないけど見た人にはわかるのでは笑)撃沈していた。

 

いや。金払って見てんだろ寝んなよって思うけど、作り手側でもある故その責任はもちろん芝居にきっとあるとおもってて

 

でもひろきしゃんの成長はほんと、ひしひし。感じた。

 

 

冒頭。なんていうか。あのシーンだけでこの芝居の主役に抜擢された説得力を感じた。うちの自担はすげえよ。

パンフにある石丸さんの言葉「もっとも痛ましいものこそ、時に美しく描きたいというわたしの望みは、彼だからこそ叶いそうです」

 

そうでしょう、そうでしょう。といったかんじ。鼻が高い。

 

そう。美しいんだよ。彼は。価値があるなあと思った。それだけで。わたしも美しいものにしか金を払いたくない人間なもんで…いくら芝居がわからなくても、お世辞にもうまくなくても、そこで許してしまえるのが、やはり美しさだとおもうんだ。(べつにうちくんのことじゃないです。ふだん芝居を見てておもうこと)顔の造形だけじゃない。言葉や所作もそうだ。かれにはその説得力がある。黙って見ていろ、っていう力が相変わらず舞台上の彼には備わっているとおもう。

 

余談ですけど。もう少しイントネーションとかアクセントを細かく指導してくれる人に出会えるといいと思う。プロの世界だともしかしたらすっ飛ばされる部分化もしれないけど、発音が気になった個所があった。でもほかの出演者もあった。からそういうところは突かれなかったんだろうなというかんじ。普段芝居してて耳はかなり鍛えられているし発音とかかなり厳しい場所にいるから余計気になったのかもだが。か、私の耳がおかしいか。笑

 

にしてもうちくんは滑舌がいいなあ。ほんと。感心する。

セリフ回しの癖はあるけど、でも今回ですごく思ったのはモノローグがかなり上達してた。ひとり芝居、ができていた。いやはや。まいった。なんてこった。そんなこともできるようになってたのか。話の切り替えの入り、がものすごく上手だった。話の切れ目がわかる。作家が自分と重ねて、いや、自分のことを綴ったであろうから、作家の言葉=ルイの言葉なんだとおもうんだけど(一人語りの部分に関しては)その、語り手の部分のシーン。ほぼひとりで喋っているところ。本当に、きちんと、なにを話しているかわかって。感動した。芝居をやってるとわかるけど、それがどんなに難しいか。そういうところまで自担は成長してた。ただ顔の綺麗なジャニーズの人、ではなくなったんだなと思った。誇らしい。誇らしいぜ。

 

いかん。感心したはなしで終わってしまう。。。

ここからはただの、わたしの、考察。観劇して、わたしが勝手に見た「まさに世界の終わり」のハナシ。正しいもくそもないです。ほんと。そして散文。

 

 

兄アントワーヌが終盤、気持ちを家族にぶつけまくるシーンで「お前にはそう見えてるんだ」と言ってたけど。

そんなようなことを私も見ながら思っていた。

 

まず序盤から不要とも思えるようなSEが気になってた。

 

やけに耳障りな生活音。水道の蛇口をひねる音。母が食器を洗う音。窓の外。車のエンジン音。

 

ルイが目覚める前のノイズや、鼓動、に対しては耳障りだなんて思わないのに。

 

平和な音が、やけに耳障りだった。

序盤の家族たちの言葉もそうだった。

 

不用意に繰り返される言葉、単語。進んでいるようで進まない会話。時間。

その真意を探りたいのにその生活音に阻まれている感じがした。

 

本当にすべてがその言葉の通り吐き出されているとは到底思えないのです。

ルイに届いたのは、聞こえていたのは、そういう、どこか愛があってでもどこか憎悪が滲んでいて耳障りで…そんな言葉たちだったのかもしれない。

 

死の淵に立たされた人間がそういうものに触れて、聞こえるはずのないものが聞こえて、見えて、そういうどこか幻聴、幻影みたいな側面を感じた。

これを私たちみたいな平和で、そいつが遠い人間が見たらよくわからなかったで終わることかもしれないけど、そいつがすぐ近くにある、そいつの恐怖に支配されてしまっている人が見たら共感しまくれる世界なのかもしれない。

 

それでもこんな私でも想像くらいはできる。

ルイの死期が近いことを家族たちは知らないまま、ではあったけれど、言葉では決してやりとりがなかったけれど、

実は伝わっていたんじゃないかと私は思ったりもしたのです。

 

それは兄の視線だったり、妹の情緒不安定だったり。母もあんなに間近に、見て、触れて、なんとなく、なんとなく悟ったんだと思う。でも、気づかない。見ないように。触れないように、した。18年も家をあけていた息子が、弟が、兄が、ふらりとある日突然帰ってくるなんて。普通なわけがない。でも知らないままでいたのは、家族だからなんだと思う。触れたくなかった。悟りたくなかった。信じたくなかった。まさか、そんなかんじ。

 

嫁であるカトリーヌだけが唯一、ルイの様子直接からは悟れない。それでももうすっかりこの家族の一員。だから、家族たちの特に夫の様子からなんとなくそれを悟る。そして他人だからルイが核心に迫ろうとすると「私には告げないで」というようなニュアンスのことを話した、ように見えた。一番ルイに踏み込んで接したのはカトリーヌだったように見えた。

家族だからわかることもあるし。家族だから触れられない場所もある。それをカトリーヌはぴょんと飛び越えてしまったり、察してやはり口をつぐんだように見えた。

 

妹シュザンヌはルイの記憶がなかった。年の離れた妹。母とこの家にずっと住んでいる。まだまだ反抗期。こんな家出ていきたいって思っている。でもここにいる、のは家族だから。そして自分の記憶にはない家族がもうすでに家を飛び出していたから。自分が出て行ったら、そんなことを考えられるじつは心の優しい子。母想い。

でもうんざりしていることには間違いはなく。ルイの帰省によってなにか、変わるかもしれないと一番期待したんだと思う。家族の中で一番そいつから遠いであろう年齢。素直に、ルイが、もしかした自分を救ってくれるかもしれないと思ったのかもしれない。

なるべく自分のことを話して。いいこの自分のことを知ってもらって。自分の味方にしたかった。でも、それでも、いつもとは様子の違う家の中や兄に感化されて、結局うまくいかない。

 

兄アントワーヌは原作では弟だそうですね。キャスト合わせなのかわからないけど、兄、で自然だったように感じた(とはいえ原作を読んでないからあれですけど)。弟に対するコンプレックス。自分のうまくいかないことを、どこかもうここにはいない弟のせいにしていた。のに、ある日突然弟が帰ってきて。ずっと弟のルイのせいにしていたことが崩れてしまう。その焦燥感。不安。その苛立ちの理由もはっきりしないまま、また弟は家を出ていこうとする。

早く元の平和な生活に戻りたいのに、そこに水をさす無邪気な妹にいら立って、他人の癖に、他人だからルイの事態を察した妻にも苛立って。自分を家族という不条理なもので結び付けた母親に苛立って、いる。そんな感じでした。終盤のシーン。カットしないでくれと頼んだらしい長台詞。というか、もうあのへんのシーンまわし。よかった。

 

母は。母でしかない。ルイの母親。愛があるのだ。愛しかないのだ。だからこそ「時間が経ちすぎたよ」と笑って言える。それがすべて。18年もあれば人は変わる。いつまでも家族の関係が変わらないなんていうことは幻想でしかない。ルイがいなくなって、それが当たり前になって、あの家族のかたちは他でもない母主導の元、ルイがいたころとは変わったはずだ。もう違うのだ。時間が経ちすぎたのだ。

もう、ルイの居場所なんかはない。それをルイはもちろん悟った。知っていた。そのことをもちろん母はわかっていて、だからこそこれからに期待したのかもしれない。ここから、ルイの居場所を、彼が必要だとするならば作ってやろうとおもったのではないか。久しぶりに触れた息子の手。病を察する前に、そのたくましく成長した姿に母はときめいてしまっていたかもしれない。母親とはそういうものだと思う。愛があるから。愛しかないから。

 

そんな家族たちと対面して、ルイは自分の死後を改めて想像した。

ルイの死を嘆き悲しむ家族たち。俺が見下ろして、俺がコントロールするのだといった感じだったけど。それが彼の望みなんでしょう。せめて自分の家族が自分の死後、悲しみに暮れていて欲しい。家を捨てた自分だけれど、そういう場所としてやはり家族が必要だったのだ。誰かが忘れない限り人は生きる。某海賊漫画みたいだけど。せめてもの願い。その妄想。

 

それでいて、自分の身勝手さを十分に理解している。誰も自分を理解できないし、自分を捨てていく。自分が家族を捨てたくせに孤独だ孤独だと嘆く。その愚かさも十分わかっている。芸術家らしい悲観だなあと思った。このあたりはまさに作者のことなんだと思うんだけど。どうなんでしょ。

ちょっとしたひっかき傷さえ残せずになんていうけどさ、こうやって作品遺して、海を渡って私たちにこうやってなんかざわざわする体験させてんだからさ。作者さん残してますよ。って誰か伝えてやって。(なに目線)

 

ルイ本人はそうやっていうけれど、十分ひっかき傷以上の影響を家族に与えたんじゃないかしら。ルイが家を再び出た後、絶対にこの家族には変化が訪れる。し、彼の死に間違いなく影響を受ける。

 

ルイにとって人生という世界はまさに旅のようなものだったのかな。旅するように人生を送ってきて、その旅の終わりを告げられて。その終わりに家族のいる場所を訪れた。

それでももうそこは自分の旅の始まりの場所であっただけで、通り過ぎていった場所で。そして、最初の感想にもどる。のです。はい。だめですね相変わらずまとまらねーわ。

 

現実と悪夢の境目も曖昧なくらい追い込まれているルイを、うちひろきは実に美しく演じていた。幕開き。あれはなんじゃ。なあ。あのさ。あのさ。えろい。えろいんだよ。いやなるべくよこしまなことは書かないっていやむりなにあれえろいあいからわず喘ぎのプロ。

 

死と向き合う役が非常に多いんです。彼。ほんと。何作品目。死んだり、それに立ち会ったりする役。舞台は本当にそうだ。まあある男の一生、みたいなのが多いからな、そりゃそうなんだけど。その死の淵を演じることが許されるのって、やっぱり彼が美しく力強く生きて、いるからなんだと思うんだよね。死に際の人間ってある種の美しさがあるとわたしはおもう(病んでないです)。し、強さがある。それを表現できるって、やっぱりいろんな思いをして生きていて、それを立体化する体を持っている人なんだと思うんだよ。うまい芝居だけでも、死にそうなくらい儚い雰囲気やましてや体じゃ絶対にだめで。そして軽々しくそれを扱ってしまってはやはりいけなくて。そういう役と向き合う権利は彼にはあるのだなあと思った。うまく言えないんだけど。間違いなくあの芝居の後、ルイは死んだなと思う。それを信じられるかどうかってやっぱりルイを演じる役者にかかっているから。今回はそこがすごい、すんなり、ああこの人は死ぬんだなあと信じられて。その要素って重要だなとおもったんすよね。年や経験を重ねて、うちくんは確実に役者として成長を遂げているのです…。いやほんとすごい。

 

 

分かった風に書いてますがいや、わかりません。感じたこと書いただけで、ぜんぜん的外れだと思う。でも芝居をやってておもうけど、お客さんの感じたことがすべてなんだよ。ほんと。わからない、はわからない、が正しいこともあって。その奥に何を見るかはやはり人によって違う。私が感じたのはこんなことでした。家族。不条理なつながり。無償の愛とよく言うけれど、愛さなければいけない存在のようにも思える。都合がよくて、居心地が悪い。そう分かりつつも最期にルイが立ち寄った場所、はやっぱり彼の旅の終わりの場所だったのかもしれないっすね。なにかを、もしかしたら居場所を、こたえを求めていた彼だけれど。やはりどうしたって唯一の居場所だったのかも。まさに世界の終わり。だったのかも。

 

おあとがよろしいようで、とはいかない。ただの感じた事羅列、みたいになってしまった。

 

都合によりおそらく東京公演は参戦できず。無念。

 

以下、ちょっと、なんかあれだった部分。

しっかり見たい人は東京公演で正解かもしれない。藤沢公演。客席の集中力ものすごく低かったです。集中できない個所もあった。くやしい。

ちゃんと役者や芝居を闘うくらいの気で見に来てる人たちだけの中で見たかったっす。そしたらもう少し理解できることもあったかも。いやないかも。わからんけど。あと舞台が遠かった。席ぜんぜん悪くなかったんすよ。んー。芝居の構成と舞台の構造かなあ。あの感じの世界観だしセリフだし、遠くで芝居している感じがした。もったいなかった。開演までの感じも、あまりスマートではなかった。スタッフとかにまで目が行くのはもう職業病なんですけど。そういうとこで満足度下げるのは許されないと思うんだわ。私はうちくんのファンだからまだいいっすわ。好きな俳優が特にいるわけではないが観劇が好きで、観劇しに来た人、とかの、満足度は低かった可能性がすごく高い。まーだからその、遠くで芝居しているかんじもね。集中度低かった由縁かもなあ。圧倒されるくらい、世界に飲み込まれてしまうくらいの感じのがもしかしたらむいてるかもなあ、というかそっちのが好みなだけ。小さい小屋でやるとかなり見え方違うと思う。もっと始終ルイに巻き込まれて家族に流されてみたかったなあ。そんな力のある役者さんがそろっていたと思うんだけど。だからもったいない。あともう、最初。ルイが帰ってきたシーンが。すべてだと思ったわ。あそこでもう大半客席があきらめたのが座っててわかったんだよ。辛かった。そこまでの集中力を持ってやはり観客はいてくれないんだなあと思ったんだよね。基礎は大事だし、その世界を一瞬で説得力を持って提示する力が要る。こっそりとひっそりと、肝に銘じた。

 

 

とまあ、そんなことも思いつつ。必死に見てきたよ。うん。

いつもは最後の方、ああ、こんどうちひろきを見られるのはいつだろうかとか、感傷に浸るんだけど。そんな隙もなく。必死に見てきた。

終わって席立ってから、ああ、そういえば次いつだろうしまった…とか思ったけど。それくらい見入ってた。

 

とはいえちゃんとうちひろきだ…というところもたくさんあった。妙に内股で脚がめちゃ細くて、あの中にいてもやっぱ顔の造形美がピカイチで、癖だらけの踊りと動きと声と。でもそれだけじゃなくしっかり揺れる心と、その表現力と。そしてカーテンコールでのお茶目な笑顔。

いい芝居に巡り合えている彼をうらやましいと思う。そしてやはり誇らしいとおもう。アイドルうちひろきが世界一好きだけど、次点で俳優うちひろきが好き、です。次点ですけど。

 

 

 

ふう。書いた。誤字あってもしらん。←